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物の哀れ
物の哀れとは、人性を知る、人情を重視する、人心を順応する、人の感情を理解することです。それは上品、それはみやび、それは落ち着き、それは俗を離れること、それは優しい美しさのあること、細く美しいこと、感情が細やかなこと、デリケットなこと、世俗的な物事に拘らないことです。自然な人性を原点にする、世俗観念を無視する、万事万物を包容する、理解する、同情するのことです。特には嘆き悲しむこと、感心して褒め称えること、哀れむこと悲しむこと、気の塞ぐことなどの心に留めて忘れない感情の共鳴力、共感的理解の能力です。
世間の万事万物を目で見る、耳で聞こえる、自ら実行する、心で味わう、それは物の哀れを知る。さらに言えば、物の情感を感じる、そこから体得するの物、それは物の哀れ。物哀れは他人の哀れ、乃至世間の哀れの共鳴する意味もある。平淡から興味を出す、簡単から深い意味が出る、それは物哀れ。
例えば、花見の時、桜を見ると、桜の美しさを知る、心からこの美しさを理解する、「嗚呼~なんと美しい桜よ」と感慨する、その感覚は物の哀れです。悟性がいい人は物哀れを感じると、感情を表すなければならない。 しかし、万物を見ると、それなりの感覚を感じられない人もいる、感動するべきなことを見ると感動しない人もいる、こんな人とは物哀れを知らない人です。
兎に角、物の哀れとは主体の私と客体の物の共鳴。この「哀れ」、元々は漢字がありません。でも哀れな感情は人々の心の中で最も深刻な感動になると、喜ぶなんてより境界がもっと高い。悲劇も喜劇より、人にもっと深刻な感覚を与える。そしてあわれと漢字の哀れには同じ発音ですから、以降の人は「哀れ」の漢字を注記しました。
《源氏物语》の中で、紫式部は「哀れ」の前に「物」を加える。自分で感じると、その物哀れは腐乱の美しさのようです。物は客観存在、哀れは主観感情、これから主観と客観は一体に成る。物哀れは単なる哀れではない、すべての気持ちも含む。感動、調和、優美、情趣、哀感の五つの主な要素がある。その中で哀感とは最も突出な感情です。哀れは主流ですから、物哀れは物哀れになる。
だから物哀れは凄然な美感世界を示す物です、ある審美意識です。川端康成はそう言いました:「悲しいと美しいは相通です」。文学には限らない、どこでもある。残月の方が好く、散る桜の花弁の方が好む。哀愁の感情を持つ美感こそ本物の物哀れの美しさです。
物哀れも生死観になる。瞬間の美しさを追求するのです。川端康成は「死にとは最高の芸術、美しさを示す方法」と思う。自分もそうしました。
魯迅先生はそう言いました。「私にとっては、確かに日本語は中国語より婉然です。<桃色の雲>という文章を中国語へ訳する時には、伝達の能力を失うと思う」
確かに、日本語は婉然な言葉です。
物哀れ意識は日本人の感情世界と生活方式に浸透しました。大和民族の心理の一部になる。
だから芥川龍之介、太宰治、三島由紀夫などの文人は文学創作を極める時に自殺しました。 だからサイパン島戦が失敗した後、700人の女の子は一緒に自殺しました。 だから山口百恵は演劇事業の最も輝く時に引退しました。
物哀れは三つの分類がある。其の一は人と人の間の感動、例えば白楽天、李清照;其の二は天下大事の感嘆、例えば杜甫、陸遊;其の三は自然物の感動、四季の変化の無常感。例えば蘇軾、李白。
例えば、白楽天の物哀れとは
天は長く 地は久しくとも 尽きる時有り この恨み 綿々として 尽きる時無し こんな物哀れはずっと終わらない、そしてこの世界は何時も残念を満たして、私達に残って上げるのは無限の想像と嘆きです。
最後の最後には、物哀れを極める漢詩の一つを選んで、中国語で朗誦します。皆様と共に作者の人間の感動の物哀れを体験するのです。 皆様お聞きください。 (蘇軾の宋詞を朗誦する)
以上です、皆様、ありがとうございます。
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